映画 「アレキサンダー」

《 昔の映画の現代的鑑賞法 歴史編10 》
「アレキサンダー」

 歴史に登場するアレキサンダー大王は、常人にはなし得ない大事業を達成した英雄であることは間違いないのだが、その人間的な評価は、いまだにはっきりと定まっていない。
 同じ古代史のヒーローであるハンニバルやシーザーなどと比べると、その業績が神々しすぎて、人間くささが漂ってこないという人もいる。


 
 アレキサンダーが、どこか 「神話的な英雄」 であり続けるのは、彼が、近代人の好きな 「合理的」 な世界観とは相容れぬ世界観の持ち主だったところに起因する。
 彼自身が、「自分は神 (ゼウス) の子」 だと信じ込んでいるようなところがあり、その心の動きに、近代合理主義の光を当ててしまえば、まさに 「誇大妄想」 という病理の問題になってしまう。
 だから、彼を人間として評価する場合は、まず合理主義的な 「人間観」 をいったん清算しなければならない。

 実際のアレキサンダーの生活を通じて、最も不思議なことは、「世界の果て」 を見てみたいという、少年じみた無邪気な衝動を、最後の最後まで捨てなかったことだ。
 当時ギリシャ人が考えていた世界の果ては、ペルシャの彼方に流れるインダス川だった。
 アレキサンダーは、当面の敵であったペルシャ帝国を滅ぼした後、遠征軍を解散することなく、世界の果てを目指して、インダスに向かった。

ギリシャ時代世界地図

《どんどん遠ざかる世界の果て》

 しかし、インダス川が近づくと、河の向こうには密林が広がり、そこに住む住民がいて、彼らを治める王がいるという情報が伝わってくる。
 アレキサンダーと兵士たちは、河を越えて泥沼の地を歩き、毒蛇や毒虫と闘い、見慣れぬ武器を持った精悍なインド兵を下して、勝利を収める。

 しかし、旅は終わらない。
 今度は、密林の果てに、ガンジスという大河があるという。
 「世界の果て」 が、またひとつ先にお預けになる。
 普通だったら、もういい加減にしようよ … という気分になるだろう。
 しかし、アレキサンダーは、世界の果てまで共に歩こうと、兵士たちに熱弁を奮う。
 もちろん、兵士のなかで、このアレキサンダーの情熱を理解できる人間は一人もいない。
 ここにアレキサンダーの 「神」 の部分が現れている。

 彼は、ガンジス川の彼方に、「世界の果て」 が、まばゆいばかりの大パノラマとして立ち上がってくることを想像した。
 そこは、「神の子」 である自分が、いよいよ 「神」 そのものとなって、全世界を視野に納める場であった。
 
 しかし、世界の果ての光景など、兵士たちにはどうでもいいことだった。ガンジス川の向こうには、宝物も美女も、おいしい料理も、快適な宿舎もないことを、すでに兵士たちは理解していた。
 兵士たちの欲望が、宝物や美女という現世的なものだとしたら、このときアレキダンサーをとりこにしていた 「世界の果てを見たい」 という欲望は、現世の彼方 … すなわち神の世界にあるものだった。

 だが、理想はいつも現世利益には勝てない。
 神の子は、地べたに座り込んだまま、無表情に大王を見つめる兵士たちに、ついに敗北する。
 結果的に、アレキサンダーのこの衝動が、後にヘレニズムと呼ばれる文化をつくり、当時の世界認識を変えることになるのだが、それは後世の研究家が見たときの話。

 インドの密林の中で、「ガンジスを目指そう ! 」 と熱弁を奮う大王を見た兵士たちは、つくづく、この神がかりの王様に嫌気がさしたことだろう。

《オーラを失った神》
アレ<br />
キサンダーDVD1

 2004年に公開された 『アレキサンダー』 では、そういう神がかった大王を描くにあたり、監督のオリバー・ストーンも苦労したようだ。
 オリバー・ストーンは、大王をいちおう 「神」 として描こうとした。
 しかし、神のオーラだけは、彼に与えなかった。
 だから、アレキサンダーは戦いに勝ち続けても、ことごとく将軍たちと対立しなければならない可哀想な王になってしまう。
 
 それに伴い、「神の子」 なら持っていなければならないはずのオーラも、ますますその光彩を失っていく。
 それは、映画のヒーローとしてのカッコよさも、薄れていくことにつながる。
 ここは、むしろアレキサンダー本人の意向 (?) を素直に汲んであげて、「神の子」 として、スーパーマンのように扱ってやってもよかったような気がする。
 極端なことをいえば、奇跡を起こす 「超能力者」 でもよかったのだ。

《彼はやはり神の子だった》

 実際にアレキサンダー大王は、本物の超能力者でないかと思えるほどの、奇跡的な偉業を成し遂げた人間である。
 彼は、どんな戦いでも、その最前線に立った。
 そして生涯、一度も負けたことがなかった。

 司令官が先頭に立って戦うなど、500人から1,000程度の小競り合いならいざしらず、万単位の兵を動かす場合は、常識的には考えられないことである。
 万が一、敵兵に討ち取られたりしたら、万単位の部隊が一気に瓦解してしまうからだ。
 しかし、彼はとりわけ目立つ軍装を身にまとい、敵にその存在を誇示する形で、兵士たちの先頭に立った。

アレキサンダーDVD2

 味方の士気を鼓舞するという気持ちもあったろうが、やはり 「自分は神の子だから死なない」 と信じていたようなところがあったのではなかろうか。
 
 しかも、戦いながら指揮を執るというのは、野球でいえばプレイングマネージャーということになり、高度な作業となるために、成功率も低い。
 ましてや、選手の動向を一望のうちに把握できる野球グランドと違い、万単位の兵が展開される前線となれば、数㎞から数10㎞に及ぶわけで、一兵士として戦っている限り、全体の戦況を把握するのは不可能に近い。

 それにもかかわらず、いつも適切な指揮が執れていたということ自体が、すでに 「奇跡」 なのだ。
 彼には、地上で戦っている自分とは別に、空から戦場の全貌を把握できる 「鳥の目」 を持っていたとしか思えない。
 彼が、「自分は神の子」 と思い込むほどの能力があったことは、このことだけでも十分に立証されている。

アレキサンダーシーン1

《きっとナポレオンにも勝っただろう》

 脱線するが、ある軍事学者が、大砲を備えたナポレオン軍と、弓矢と槍、剣だけで戦うアレキサンダー軍が、同じ兵員数で戦ったとき、どちらが勝つか、シュミレーションを行ったことがある。
 結果は、ナポレオン軍の大砲がすべて正確に作動し、かつアレキサンダー軍が大砲というものの予備知識をまったく持たなかった仮定しても、アレキサンダー軍が勝つと出たという。

ナポレオン戦争

 軍事的な才能だけ取り出しても、古代から近世にかけて輩出したすべての軍人のなかでも、アレキサンダーの能力はずば抜けていたとも。
 政治能力に秀でた人間は、千人に 1人ぐらいの率で現れるが、軍事の天才は、万人に1人の率だという話を聞いたこともある。
 軍事に関しては、彼はやっぱり 「神に選ばれた人間」 だったのかもしれない。

《オタク向け映画の極致》
 
 兵士の甲冑および庶民の衣装、またギリシャやペルシャの建築などのディテールはマニアックに追及されている映画である。
 古代ヘレニズム期の風俗や軍装などを調べるための “図鑑” としては一級品だと思う。
 特に、軍隊の描写に関しては、歴史オタクの知識量を挑発するような凝った情報がたくさん盛り込まれている。
  
 たとえば、アレキサンダーの兜には、資料どおり、牛の角のような2本の羽飾りが付けられているし、ペルシャ軍の隊列には、プルタークがレポートしているように、スキタイの騎馬戦士やベドウィン族のラクダ部隊が混ざっている。

 また、あの時代の騎兵は、鞍も鐙 (あぶみ) も使わなかったが、そんなところまで忠実に再現されている。
 さらに、ガウガメラの戦いの前には、犠牲獣から内臓を取り出して吉凶を占うシーンが挿入されるなど、古代史マニアを満足させるための情報は実に盛りだくさん。

 しかし、そういうシーンは、よほどのモノ好きでなければ喜んだりすることもないだろうから、そこにお金をかけても、評価してくれる人は少ないはず。
 なんとももったいない映画だ。
 まぁ、ドラマとしての評価は40点ぐらいかもしれないが、資料的な価値としては120点以上あげたい。

《こっそりTVで多用される音楽》 

 そうそう! 音楽もよかった。
 さすがに、ヴァンゲリス!
 これは、さっそくサントラ盤CDを買いに行った。
 
 実際に、テレビのドキュメントものなどで、効果音的に使われる音楽を注意深く聞いていると、結構この 『アレキサンダー』 のサントラからの引用が多い。
  
 古代史オタクで、かつ映画音楽ファンの私としては、十分に楽しめた映画であったことはいうまでもない。 
 
 

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