都会を離れるときのドライブ音楽は泥臭いのがいい

 
 アメリカ黒人の音楽は、どんなに素朴だろうが、哀切感に溢れようが、基本的に「都市の音楽」だと思っている。
 それは、彼らの歴史に負うところが大きい。
 
 19世紀から20世紀のはじめにかけて、田舎で奴隷のように働いていた黒人動労者が、都市に逃れることによって、(少しだけ)自由になれたという、あの都市への渇望が、ブルースから R&B へつながる黒人音楽のベースとなっている。
 
 彼らの音楽が、完全に「都市」を掌握したのは、70年代に入ってからだ。
 スタイリスティックス、オージェイズ、カーティス・メイフィールド、ダニー・ハサウェイなどがつくり出したソウル・ミュージックは、都市の主役に登りつめた黒人たちの自信がみなぎったような音となった。
  

 
 彼らのつくり出した音楽は、ゲットーの少し危険な香りが漂うディスコで聞いても、震えるくらいにカッコいいし、窓の外に摩天楼のネオンがきらめく部屋で聞いても似合う。
 洒落た洋酒のボトルが並ぶバーカウンターで聞けば、女を口説きたくなるし、ゴージャスな調度に彩られたベッドルームで恋人と聞けば、もう至福の時が得られるようになっている。
 
 それに比べると、同じ時代のアメリカ白人系ロックは、道ばたに舞い上がるホコリの匂いがする。
 オールマン・ブラザーズ・バンドなどは、ヒット曲ばかり集めたベスト盤といえども、どうしようもなく泥臭い。
 CCR なども、当時のソウルミュージックが極めたストリングスを多用した緻密なサウンドに比べると、あまりもの音のスカスカさ加減にびっくりする。
 
 しかし、次第にそういう音の方が、好きになっていった時期があった。
 それは、自動車免許の取得と重なっている。
 考えてみれば、ソウルミュージックに凝っていた時代は、クルマというものを知らなかった。
 音楽とは、自室にこもって FEN  で音楽ソースを仕入れ、コーヒーを飲みながら聞くものだと思っていた。
 あるいは、福生基地周辺の黒人がたまり場とするスナックで、ジュークボックスから流れる音として聞く。
 
 もともと、R&B そのものがダンス音楽として発展してきたものだから、密閉された空間で聞くことに違和感がない。
 その祝祭的な空間で、同じ音を共有し合う者同士がぶつかり合い、笑い合い、語り合う。
 自分にとってのソウルミュージックとは、そういう音楽だった。
 
 しかし、免許を取得して、自分でクルマを転がすようになると、求める音が変った。
 ダンスを前提とする R&B は、体の上下動にはぴったり合うが、道路を水平に移動していくときには、しっくりこない。
 ところが、オールマン・ブラザーズ・バンドの「エリザベスリードの追憶」、「ジェシカ」、「ハイフォールズ」などといったインスト曲、あるいは、ドゥービー・ブラザーズの「ロング・トレイン・ラニング」などは、実にクルマの疾走感とシンクロする。
   

▼ The Allman brothers band 「High falls」

 
 ディープパープルの「ハイウェイスター」などは、クルマを知る前は大嫌いな曲だったが、運転しながら聞いてみて、初めてその狙いが分かった。
 
 白人のロックが、エンジン付きの乗り物と相性がいいことは、70年代の『イージーライダー』が証明している。
 アメリカの荒野を走るモーターサイクルの疾走感を表現するためにつくられたのではないかと思えるステッペンウルフの「ボーン・トゥ・ビー・ワイルド」などは、その代表例だ。
 あの映画のなかでは、ザ・バンドが演奏するミディアム・テンポの「ウェイト」でさえも、モーターサイクルの疾走感をものの見事に捉えていた。
 
 オールマン・ブラザーズ・バンドの名を高らしめた天才ギタリストのデュアン・オールマンは、モーターサイクルで疾走中、事故によって26歳の生涯を閉じた。
 デュアン・オールマンの音楽が、エンジン付きのマシンで疾走する時の躍動感を表現しているのは、多分、彼がオートバイが好きだったからだろう。
 
 20代の自分は、そういうサザン・ロックに酔いしれながら、ハイウェイを疾走することが唯一の趣味の、暴走青年だった。
 ところが、乗るクルマが乗用車からキャンピングカーになって、また音楽の趣味が変った。
 同じ白人系の音でも、もっとダルでレイジーなものが良くなってきたのである。
 たとえば、ライ・クーダーの 『ロングライダース』 のサントラ。
 
 そのテーマ曲が持つ “間抜けな陽気さ” とノスタルジックな哀切感が、妙に心になじんできた。
 

  
 劇中のダンスシーンに使われる「セニカ・スクエア・ダンス」や「コール・ヤンガー・ポルカ」などは、まったく昔のフォークダンスの伴奏曲なのだが、それがなんともいえずに心地よい。
 それを機に、ライ・クーダーは『チキン・スキン・ミュージック』と『紫の峡谷』を立て続けに買った。
 
 オールマン・ブラザーズ・バンドでも、天才ギタリストといわれたデュアン・オールマンが死んでからのアルバムの方が好きになった。
 弟のグレッグ・オールマンがリーダーを務める『レイドバック』や『ウィン・ルーズ・オア・ロスト』などの音楽ソースは、キャンピングカーの旅では必ず携帯する。
 グレッグ・オールマンの眠たげなボーカル。
 ディッキー・ベッツの田舎くさいのどかなギター。
 そういうルーズなサウンドを聞きながら、キャンプ場を求めて、畑の見える田舎道をトロトロ走っていると、妙に癒される。
 
 東京・国立にあるカントリーソングのバーで、そこに出ていたバンドのマスターが、演奏の合間に話していたことが印象に残っている。
 アメリカの大衆音楽ほど、「ロンリー」とか「ロンサム」などという言葉が多用される音楽はないのだそうだ。
 アメリカに渡った頃のヨーロッパ人というのは、歴代のヨーロッパ民族のなかでも、いちばん寂しい風景を見てしまった人たちだという。
 
 そういわれてみれば、確かにアメリカ内陸部の風景は寂しい。
 西部劇に登場する風景は、馬に乗ったカウボーイかインディアンが現れてこなければ、月の世界か、火星の世界。生き物の気配がない土地である。
 
 アメリカ人は、そういう大地を旅しなければ生きる糧が得られなかったヨーロッパの食いつめ者たちだったそうだ。
 だから、逆に、子犬がじゃれ付くような、無邪気さ。「お互いにさびしいね」と、老人同士が肩を組んで笑いあうような陽気さが生まれる。
 
 カントリーやフォークロックに現れる臆面もない明るさというのは、彼らのセンチメンタリズムの裏っ返しかもしれない。
 彼らは、「寂しさ」をヨーロッパ知識人のような教養ではなく、体感として感じ取った。
 それが、「ロンリー」とか「ロンサム」をストレートに口にするセンチメンタリズムにつながっていく。
 
 ライ・クーダーやニール・ヤング、バンドなどの音には、そういう北米民族が持っているセンチメンタリズムがある。グレッグ・オールマンにもある。
 彼らは、自分たちの音の中に、照れることなくセンチメンタリズムを盛り込む。
 黒人系の音をずっと聞いていた自分には、それが最初は野暮ったくてしょうがなかった。
 しかし、白人のセンチメンタリズムは大地に根ざしたものだけに、部屋の中で聞くのではなく、フィールドで聞くと説得力がある。
 
 都市から、ハイウェイへ。
 そして田舎へ。
 自分のドライブ時に聞く音楽は、どんどん泥臭くなっていく。
 
  
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