「明日の記憶」

  
 『明日の記憶』 という映画を見た。
 これは、2004年に発行された荻原浩氏の小説を映画化したもので、原作はその翌年に、全国の書店店員が選ぶ 「本屋大賞」 の 2位に選ばれている。
 
明日の記憶DVD
  
 同書は、発行当時から、かなりいろいろな媒体の書評欄で採り上げられ、巷でも、ちょっとした話題になった。
 「サスペンスやホラーより怖い」
 と、どこかのレビューに書かれていたので、ホラー好きの私は、即座にこの本を買った。
 映画を観られた方、あるいは原作を読まれた方は、その内容をご存知だろうが、広告代理店に勤めている49歳のサラリーマンが、若年性アルツハイマーに冒されるという話だ。
 
 原作を読んだ私は、最初の数ページから、レビューで書かれていた 「サスペンスやホラーより怖い」 という意味が理解できた。
 
明日の記憶本
 
 「ほら、あの俳優…なんていう名前だっけ、ほら…ええと…」
 CM制作のスタッフたちが集まる会議で、主人公はイメージキャラクターとして採用しようとする俳優の名前を、どうしても思い出すことができない。(原作ではジョニー・デップ。映画ではデカプリオ)
 
 「アルツハイマーがテーマである」
 という予備知識と、そのシーンが共振し始めると、もうそれだけで怖い。
 40歳を過ぎた人間には当たり前のように生じる 「物忘れ」 が、実はアルツハイマーの前兆ではないのかと、誰にも感じさせる導入部だからだ。
 
 主人公は、自分を冒し始める病気がアルツハイマーであることなどはつゆ知らず、単なる体調不良だと信じながら、病院の診察を受ける。
 医師は、テーブルの上に時計や手帳などの小物を並べ、主人公にそれを覚えさせてから、おもむろに新聞紙で覆う (映画では封筒)。
 
 「さて、新聞の下に何が置かれているのか。思い出すままに答えてください」
 医師にそう言われ、「子供だましのようなテストを…」 とバカにしながら挑んだ主人公。
 
 ところが、簡単に思い出せると思ったはずの小物類が、一切記憶に浮かんでこない。
 このときに主人公が受ける衝撃は、そのままストレートに読者の胸に突き刺さってくる。
 「これはのっぴきならない小説だ!」
 という実感が、そこから一気に加速する。
 映画はおおむね、原作に忠実に作られていたが、このシーンは、はっきりいって、原作の方が上だ。
 
 原作は、一人称で進む。
 だから、他人の意識を説明するとき、
 「彼は、きっとそう感じているのだろう」
 「彼女は、そう思っているに違いない」
 というように、すべて主人公の類推によって描かれていく。
 
 そのために、
 「ひょっとしたら、回りの人々が自分を変な目で見ているように感じられるのは、自分の病から生じる妄想なのではあるまいか?」
 と読者に思わせるような効果をあげている。
 こういった不安感を醸成していく手法は、映画より原作の方に軍配があがる。
 
 この小説は、ある意味で哲学的だ。
 人間のアイデンティティを保証する根拠は、実は記憶というあいまいなものでしかない、という事実を活写しているからだ。
 
 「我思う、ゆえに我あり」
 と、高名な哲学者がいった歴史的な言葉があるが、その 「我」 とは、すなわち、その人間がその日まで保持していた記憶であると採ることもできる。
 大富豪であろうが、専門知識を持った学者であろうが、記憶を失えば、「ただの人」 どころか、人間ですらなくなる。
 記憶を失いかけている主人公には、その「自分が人間でなくなる日」 のイメージすら見えるようになる。
 
 それは、いま感じている 「恐怖」 そのものさえ消失する日だ。
 そして、その日が近づくにつれ、彼が付けている日記からは、次第に漢字の姿が消えていく。
 それに代わって、のっぺりした平仮名がノートを埋め尽くしていくのだが、もうそのこと自体に対しても、本人の関心は薄れていく。
 
 「サスペンスやホラーより怖い」
 と評されても、この小説の基本はヒューマン・ドラマである。愛がテーマになっているのだ。
 この小説では、主人公が次第に記憶を失っていく状況を、鬼気迫る迫力で描写しながらも、一方では、その夫を必死に支えようとする妻の努力が描かれている。
 家中に、「火の用心」 「ガスの元栓注意」 などという張り紙を張りながら、そういうケアが、夫のプライドを傷つけることも知っている妻は、わざと、おどけたイラストを書き込んでみたり、女子高校生の言い回しを真似たりして気を配る。
 テーマは、実は、病魔と戦う夫婦の愛のドラマなのだ。
 
 だから、ここに登場する妻のような、主人公を支えてくれる協力者を持たない人間にとっては、まさに文字通りの 「恐怖小説」 になってしまう。
  
 ラストは、勘のいい読者には予想のついた結末かもしれないが、感動的だ。
 このラストの数ページを表現したいがために、作者はこの長い小説を書いたとすら思えてくる。
 多くの読者は、ここで涙腺が緩むのを止められないだろう。
 
 しかし、例えば、古井由吉の 『杏子 (ようこ)』 などの結末と比べるとどうだろう。
 『杏子』 は、『明日の記憶』 と同じように、主人公が、自分の抱えている精神疾患を、運命として受け入れていくという終わり方をする。
 
 精神分裂病の診断を受けている杏子は、入院を決意するときに、
 「今が私の人生の頂点かもしれない」
 と、独り言をつぶやきながら、夕焼けを見つめる。
 
 物語は、そこでブツッと終わる。
 なんともぶっきらぼうなエンディングだが、出来の良い俳句を読んだときのような、言葉の尽きた果てに広がる余韻があった。
 
 『明日の記憶』 は、文学でも、エンターティメント小説の終わり方のように思える。
 つまり、鮮やかに決まり過ぎている。
 この小説を読んだとき、このシーンを映像にして、美しい曲と一緒にエンドタイトルを流せば、「名場面」 として語り継がれる映画ができるような気がした。
 
 そして、実際に映画化されたわけだが、映画が原作をしのいだかどうか。
 ちょっと、私は判断留保。
 これは、両方を見られた方の判定にお譲りしたい。
 
 自分は 『杏子』 のようなエンディングが好きだが、『明日の記憶』 の終わり方も否定しない。
 そこには、“今風” の感動は、確かに存在する。
 判りやすい小説が受ける時代になったのかもしれない。  
 
 

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