HERO (英雄)

《 昔の映画の現代的鑑賞法 歴史編4》
「HERO(英雄) 」

 
 『HERO(英雄)』 は、秦の始皇帝暗殺をテーマにしたアクション史劇 (2003年公開)。
 チャン・イーモウ監督がメガホンを取り、ジェット・リー、トニー・レオン、チャン・ツィイーなど、中国・
香港を代表するスターたちが華麗な演技を競う、アジア初の本格的 大型 娯楽映画だ。
 
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 ワイヤーワークによる空中チャンバラに魅力を感じない私としては、公開時にこれを観る気になれなかった。
 しかし、今回DVDで観て、
 「これは凄い映画だ」
 と認めざるを得なくなった。

《 空中戦の美しさ 》
 
 この映画では、主人公たちが演じる格闘シーンは、すべてワイヤーワークによる、重力の法則を無視した空中戦になっている。
 剣士たちは、跳躍しながら身体を反転させ、矢のような速さで剣を繰り出す。
 映画というより、劇画かアニメの世界だ。
 人の肉が切れる音まで再現した黒澤明風のチャンバラでもう驚いていた私のような世代の者は、こういう映像にリアリティを感じることは少ないだろう。

 しかし、劇画、アニメ、コンピューターゲームに親しんでいる世代にとっては、むしろなじみ深い映像だと思う。
 彼らが求める劇画やゲームの世界では、超人的な体力を持つ異能の武闘家たちが主人公となる。
 その武闘家たちの動きを、幼児期から視覚文化として取り込んできた人々にとっては、“空飛ぶ剣術家” でなければ、「強さ」 や 「たくましさ」 を実感できないかもしれない。
 
 しかし、私がこの決闘シーンに感心したのは、劇画やゲームの手法が取り入れられていたからではない。
 その動きが、洗練された美しさに満ちていたからだ。
 昔の映画では、決闘シーンといえば 「緊張感」 や 「迫力」 が要求された。

 しかし、ここでは、それらに代わって 「優美」 とか 「洗練」 といった概念の方が重視されている。
 跳躍する剣士たちは、まるで空中でダンスを踊っているように見える。
 滞空時間の長い彼らの飛翔は、時には止まっているようにも見え、そこには東洋的な静けささえ湛えられている。
 
 虚空を飛んでいく闘いとは、実は、想念のなかの闘いなのだ。
 実力が伯仲しているとき、決闘する2人は、対峙しあったまま動かない。
 碁や将棋の名人が対戦するときのように、相手の繰り出す20手先、30手先まで読み合おうとする。
 
 2人の“意識の闘い”が、映像として表現されたとき、空中の乱舞となるのだ。
 その剣士たちの動きに合わせ、華麗な衣装が空を流れ、風が枯葉を踊らせ、湖面がしぶきを上げる。
 
 それを見ていると、資本主義文化の最先端をいく、化粧品やファッション関係の洗練されたCMを見ているような気分になる。
 それでいて、そこには東洋哲学的な 「諸行無常の響き」 すら漂っている。

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 アクションの美しさを見せるだけの映画かというと、そうではない。
 テーマもはっきりしている。
 この映画は、「統治」 とは何なのか? を問う、政治哲学を披露したドラマなのだ。
 
 中国を統一し、のちの始皇帝となる秦王は、他国の王たちからは残虐な侵略者とみなされていたが、秦王には世界を統一するビジョンがあった。
 しかし、彼のビジョンはあまりにも雄大すぎて、他国民どころか、自国の臣民にも理解できなかった。
 むしろ、彼を殺そうとした暗殺者だけが、逆に彼の雄大なビジョンを理解していたという設定である。
 
 暗殺者たちは、秦王のビジョンに共感しながらも、彼を殺すべきか、生かすべきか煩悶する。
 秦王には、民を愛するという心が欠けており、天下を取った後は、手のつけられない暴君となることも予想された。
 そうなれば、秦王の政権が誕生したときには、民を苦しめる独裁国家が生まれることになる。
 しかし、秦王には、他のどの王よりも早く、戦乱の世を治め、平和な統一国家をつくる力もある。
 秦王は、中国の民からすれば、“もろ刃のつるぎ”なのだ。
 
 そこで、暗殺者たちは 「民を愛する」 心さえ持ち合わせれば、秦王の統治は万全であるというメッセージを、「暗殺をほのめかす」 行為のなかで、伝えようとする。
 秦王の抽象的な政治理念を、シナリオは分かりやすく要約している。
 
 秦王と暗殺者の間で、こんな会話のやりとりがある。
 暗殺者が、
 「趙 (ちょう) という国には、一つの文字を表現するのにも、たくさんの書体があります」
 と語る。
 すると、秦王は、
 「それは不便なこと。書体などはひとつで十分だ。ワシが天下を取ったならば、不必要な書体をすべて消し去ってやる」
 と答える。
 
 一見、文化の多様性を認めない暴君の発言とも取れるが、文字や度量衡を統一することは、国家事業の要(かなめ) である。
 秦王は、国家統治の原則を述べたまでのことなのだ。
 
 秦という国家が採った苛烈なまでの法治主義も、ここでは分かりやすく描かれている。
 自分の政治理念に理解を示した暗殺者の命を、秦王はむしろ救いたいと思う。
 しかし、法に背いた者を裁かなければ、臣民に法というものを遵守させることはできない。
 秦王は、苦渋の選択の後に、暗殺者に死を賜 (たま)う。
 むずかしい政治理念の話を、子供にも分かりやすく描いたシナリオといえよう。
 
《 変りつつある中国映画 》

 10年ほど前、中国映画の 『三国志』 を観たとき、娯楽作品としては完成にほど遠いものを感じた。
 京劇的に様式化された俳優たちの演技も稚拙だったし、セットや衣装も貧しかった。戦闘シーンなどもお粗末なものだった。
 しかし 『HERO』 はもう違う。
 映像的な洗練度においては、もはや日本が負けているような気もする。
 
 この映画には、新しい映像技術を身に付けて、それに見合った映像美を想像した中国人の自信がみなぎっている。
 今は、ブランド品などの 「真似っ子」 をたくさん世に送り出し、知的財産権の意識が希薄だと顰蹙を買っている中国だが、もし中国映画が、かつてのハリウッド映画とは違ったスタイルの映画文化を築き始めたら、きっと世界の脅威となるに違いない。
 
 詩情豊かな映像を実現するためには、その背景となる風景も大切になる。
 なにしろ、中国は、その映像美を保証してくれるロケ地に事欠かない。
 広大な自国領内には、熱帯雨林もあれば、砂漠もある。
 世界的な高さを誇る山脈もあれば、上海のような“未来都市”もある。
 現に、この映画では、かつてのシルクロードの入口あたりを思わせる、茫漠たる砂漠が登場する。
 
 その荒涼たる砂漠の映像が、剣士たちの孤独な心情を雄弁に物語っていた。
 中国古代史を愛する人ならば、ここに描かれた砂漠の映像に、そのかなたに広がる幻の都の楼蘭を思い描いたり、西域に旅発つ張騫 (ちょうけん) や三蔵法師の後姿を重ね合わせたかもしれない。
 こういうロケーションは、どう逆立ちしたって、日本国内では見出せない。
 願わくば、いま経済発展を最優先しているかの国が、これ以上の自然破壊を進めないことを祈るばかりだ。
 
 
  

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