少年の事件2題

 社会的な事件は取り上げない。
 …というほどの「方針」があるわけでもないけれど、世間を騒がせる犯罪ニュースなどには言及しないようにして、このブログを綴ってきた。
 
 しかし、最近10代半ばの少年が絡んだ社会的事件が重なったので、ちょっとだけ、感じたことを書いてみようと思う。
 母親を殺害して生首を持ち歩いた少年が17歳。
 自殺サイトで知り合った男性と、山奥で自殺してしまった少年が16歳。
 たまたま同じような年の少年が、続けざまに社会的な事件を起こしたことを受け、若い人の世界に何か異変が起こっているというようなコメントを発表する識者がいる。
 
 「若者の心の歪みを助長する現代社会の病理」
 
 マスコミは、そんなキャッチが好きだ。
 しかし、この二つの事件は、まったく異なる世界に属するもののように感じる。
 
 乏しい情報しか持たない段階で、即断はできないけれど、まず生首少年の事件は、単純に少年の生物学的な精神疾患に由来するように思える。
 生物学的な…という表現が抽象的すぎるなら、投薬や専門医のメンタルケアなどで改善する病気といいかえてもいいだろうか。
 生首を持ち歩く。
 切断した腕をオブジェのように飾る。
 このような少年の異様な行動が、自分を「正常な神経の持ち主」と思っていた人たちの恐怖心と好奇心をそそったのか、
 やたら、「心の闇に迫る!」
 という言葉が、事件後の報道に飛び交った。
 
 しかし、切断した腕をオブジェのように飾るという儀式めいた行動は、健常者には奇異に思えても、ある種の精神疾患を抱えた人には、きわめて“合理的”な意味合いを持っている場合がある。
 
 ただ、その論理の筋道は、われわれが考えている合理主義とは少し違う。
 早くから少年の明らかな精神疾患を指摘した専門家もいたが、興味を煽ることを目的とするワイドショーなどは、「心の闇」という文学的なアプローチがお気に入りで、彼の生い立ちや、母親との関係や、クラスメイトとの関係などを執拗に追及していた。
 あるいは、ホラーへの異様な興味から誘発された猟奇事件のように扱うメディアもあった。
 しかし、そういう視点からは、何も見えてこないように思う。
 
 確かに、精神疾患には、「なぜ発症するのか」という原因がいまだに解明されないものもある。
 だから、
 「親子関係に問題があったのではないか」
 「就学環境が変わって、その変化についていけなかったのではないか」
 などという憶測がまかり通ってしまう。
 しかし、精神疾患のなかには、インフルエンザにかかるように、はしかにかかるように発症してしまうものもある。
 
 それは社会のせいでも、時代のせいでも、両親のせいでもない。
 殺された母親は、子供の異変に気づき、精神科にも通わせていたというから、たぶん母親としての落ち度はなかったはずだ。
 
 ただ、あまりもの急展開な進行に、親がついていけなかったことが悲劇となった。
 事件の真相は、その後の精神鑑定の結果によって明らかになるだろうが、もし、精神障害であることが判明した場合、憂慮することが一点ある。
 
 それは、精神障害を持っている人が、すべてこのような異様で残酷な事件を起こすと勘違いされてしまうことだ。
 犯罪を起こしてしまう患者は、ごく一部にすぎない。
 多くの患者は、適切な治療さえ受ければ、そんな病気に罹っていたのかと、本人が不思議に思うほど、元気に日常生活に戻っていく。
 
 なのに、精神障害をことさら大げさにとらえ、不必要な警戒心を煽るコメンテーターが、ときどきマスコミに登場する。
 そういう人には、しっかり勉強してから発言してもらいたい。
 異様なのは、自殺サイトで知り合った見ず知らずの人間と一緒に自殺してしまうという事件の方だ。
 
 最近は、自殺者も急増。このような自殺サイトの存在もメディアに頻繁に取りあげられるようになった。
 だから、生首事件より、自殺少年事件の方が「日常的な事件」として思われがちだが、そういうことが頻繁に起こる社会というものの方が、生首事件よりも異様である。
 
 土曜日の晩、家でテレビを見ていたら、エジプトのピラミッド製作の謎に迫る番組をやっていた。
 古代エジプトの王は、「死後の永遠の生命」を得るために、ピラミッドを造り、その作業に励んだエジプトの民たちは、ファラオのピラミッド造りに手を貸すことで、また、自らの命も永遠になると信じていたという。
 
 その解説をしていたエジプト学の吉村先生が、
 「それだけ古代人は、死を恐れていたんでしょうね」
 と、何気なく発言していたことが、妙に心に刺さった。
 
 人間の精神文明は、「死を恐れる」ことから始まったのだ。
 今回自殺した少年は、自殺する動機を、
 「この先、生きていく意味を見出せない」
 というような言葉で語ったと報じられている。
 生きている意味がないから、死ぬ。
 
 この「あっさり感」って、やっぱり変だ。
 いつのまにか、日本に「死を恐れない」社会が出現したのだ。
 自殺した多くの人の動機は、
 「生きることの辛さに耐えかねて…」
 というものであるらしい。
 
 そういうと、
 「人間は、もっと辛さに耐えなければダメ!」
 「若者は、もっと根性を持て!」
 などと、精神論で対応しようとする人たちがいる。
 しかし、そういう提唱だけでは、隣りの家の垣根をヒョイと越えるように、あっさりと死を選んでしまう人たちが増えてきた社会を解明できない。
 社会や時代にメスを入れなければならないのは、生首事件ではなく、自殺事件の方だと思う。
 

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少年の事件2題 への4件のコメント

  1. TJ より:

    最近の世の中の異様な事件は、ビデオゲームや映画の影響もあると思います。現実とバーチャルの区別がつかなく、死んだ人間も『リセット』すれば生き返るように思っているとしか思えません。
    自殺に関しても、死後の世界があるとか現実逃避、責任のがれ以外は考えられません。
    何か、人間が生きることに対する(生と死)を安易にすることで、いかに自分を楽な方向に導こうとしているだけで『生きる責任』から逃げていると思います。

  2. 町田 より:

    そうですね。「死後の世界を安易に考える」というのは、最近の傾向かもしれませんね。昔から、人間は死後の世界を考え続けてきたのでしょうけれど、ファッショナブルなゲーム感覚で「死後の世界」を思い描くという今の風潮は、どこかで、ビデオゲームとか映画の影響があるのかもしれません。
    スピリチュアルブーム。超能力への興味。
    今のテレビがよく取り上げるテーマが、時代の風潮を如実に語っているような気もします。

  3. Dorcus より:

    障害者差別、多くの自殺、事件事故、日本はどうにかしている。「夢や希望を持って生きましょう。」なんて言ってるけど、障害者は何なのか、特殊学校で将来を強制的に決めたり、事件、事故で死んだ人はどうでもいいんかい? 何なんだ一体。

  4. 町田 より:

    >Dorcusさん
    ずいぶん昔のエントリーにもかかわらず、コメントを頂きましてありがとうございます。
    おっしゃるように、「夢や希望を持って生きましょう」という言葉が、今の時代ほどそらぞらしく聞こえる時代はないように思います。
    障害者差別の問題を直視したり、自殺・事故の連鎖的広がりを究明するときにも、従来の説明体系が通用しない時代になっているのではないかと感じます。
    社会の抱える暗い部分を直視することに目をつぶって、「夢や希望」を唱えることは空しいことです。
    Dorcusさんのコメントで、久しぶりにそのことを考える機会を得ることができました。
    ありがとうございます。

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