ブレードランナー


▲ 80年代を代表する映画 「ブレードランナー」 の1 シーン 
 
  
いま見えてきた1980年代
 
 その時代がどんな時代であったのか。それは、その時代を生きていた人間には見えないことが多い。
 
 しかし、20年ぐらい経つと、見えてくるものがある。
 そういう事情を反映してか、ここ最近、吉崎達彦氏の 『1985年』 、村田晃嗣氏の 『プレイバック1980年代』 など、1980年代を回顧するような本が書店で目立つようになってきた。
 それはやはり、今になって見えてくる 「80年代」 というものがあるからだろう。
 
 1980年代というのは、どういう時代だったのか。
 大塚英志氏の書いた『おたくの精神史 1980年代論』という本は、それを知るための好著である。
 
 この本は、80年代文化を「おたく」という存在を通して見つめ直したユニークな書だが、彼はそのなかでも、特に1983年に注目している。
 そしてこの83年に、日本に初めて登場したものとして、次のようなものを列記している。
 
 任天堂のファミリーコンピューター
 東京ディズニーランド
 YMO (イエローマジックオーケストラ)
 大友克洋 「童夢」
 浅田彰 「構造と力」
 中沢新一 「チベットのモーツァルト」
 
 ここから先は、大塚氏の論考から離れてしまうのだが、この大塚氏の挙げた固有名詞の羅列を見るだけで、私には 「80年代」 の意味が、ひとつのイメージとして膨らんでくる。
 
 つまり、実体のあるリアルなものよりも、人工的につくられたバーチャルなものを重視する、という意識が人々の日常生活のなかに浸透し、さらに、そのことに肯定的な意義を見出そうとする主張が台頭してきた年が、1983年なのだ。
 
 ファミコンは、まさに 「日常生活」 と 「ゲーム」 は等価であるという意識を人類にもたらした最初の玩具だった。
 ドラクエのダンジョンに潜むアイテムを獲得することの方が、現実の宝物を手に入れるよりも価値がある、という奇妙なリアリティは、それ以前の玩具になじんできた子供たちには持ち得ないものだった。
 
 そのような仮想空間のリアリティを、圧倒的な物量によって保証したのが、東京ディズニーランドだといっていいだろう。
 非日常的な仕掛けがここまで緻密化されると、もはやそれを日常生活と区別するのは、「ディズニーランドの門を出るか出ないか」 だけの違いになってしまう。
 ディズニーランドの中に一生いられるお金さえあれば、入場者は死ぬまでおとぎ話の主人公でいることもできる。
 
 浅田彰と中沢新一の著作は、ともにそのような仮想空間に生きることで見えてくる “何ものか” に注目していた。
 もちろん、彼らは、 「ファミコン」 や 「ディズニーランド」 そのものに意義を見出したわけではない。
 
 しかし、彼らが展開する論旨には、明らかに、古典的なアカデミズムの世界に安住していた人間には、理解不能な思想領域が誕生し、そしてそこから照射されてくる光が、人間の感受性すらも変えるという主張があったように思う。 
 
 そのような世界観を、映像として完璧に描ききったのが、1982年にリドリー・スコットの手によって制作された 『ブレードランナー』 だった。
 
 この映画では、 「人間とレプリカント (アンドロイド) を分ける境界は何か?」
 という問いを通じて、自然物と人工物が溶解した異形の未来が、象徴的に語られていた。

▼ ブレードランナーに描かれる未来都市  

 
   
未来都市のデカダンスな美学
 
 映画は次のように展開する。
 
 人間と寸分たがわぬ外観を持った数人のレプリカントが、4年しか生きられないという寿命を延ばすために、過酷な労働を強制された惑星を脱出して、密かに地球に戻ってくる。
 
▼ 地球に潜入したレプリカント

 
 彼らの目的は、自分たちを開発した科学者を見つけ出し、不死の命を得ること。
 しかし、「生命」 というものの本質的な意味を理解できない彼らは、簡単に殺人を犯す。
 
 それを捕捉して殲滅させる役を、まだ若いハリソン・フォードが演じる。
 ハリソン・フォード演じるデッカードは、人間なのだが、(彼もまたレプリカントだという説も一部あるが …)、その人間であるデッカードも、やがて女性型のレプリカントに恋してしまう。

▼ ハリソン・フォード演じる主人公の 「デッカード」 

▼ 女性型レプリカントのレイチェル

この映画で描かれた近未来都市は、そのようなレプリカントたちの存在感を浮き立たせる格好の舞台だった。
 
 奇怪な高層ビルが立ち並ぶ巨大都市の下層部では、常に酸性雨が降り注ぎ、昼夜を問わず、スモッグが大気を汚している。
 夜ともなると、日本の“芸者ガール”の顔を大写しにした電飾広告が、空一面に毒々しい光をまき散らす。
 
 キャバレーやカフェは、刹那の快楽を求める人々が漂わす退廃の匂いに満ちあふれ、犯罪の影がいつも忍び寄っている。

 
 
 都市の下層部が、そのような混乱と荒廃に見舞われているというのに、高層ビルの上層部にあるエリートたちの居住区は、別世界の様相を呈している。
 
 人工の光源による夕陽が差し込むテラスは、古代エジプトの神殿のような静けさをたたえたまま、永遠の日没のなかで凍結している。


 
 リビングの調度を照らす光は、すべてフェルメールの光となり、その影に回った闇は、闇にも色があることを教える レンブラントの闇になっている。
 

 
 高度なテクノロジーによってコントロールされる未来都市の照明は、そのような複雑な陰影まで表現するのだが、しかし、そのように完璧にチューニングされた住まいというのは、甘美なユートピアであると同時に、死の気配を漂わせた霊安室にも近い。
 
 レプリカントたちを開発した会社の社長も、またそのようなメランコリックなバーチャル空間に生きるエリート階層の一人だ。
 
 彼自身は人間だが、彼の執務を支える女性秘書は、完璧な美貌を備えながらもレプリカントであり、彼女自身は、自分がレプリカントであることを知らない。
 
▼ 自らを人間と思い込むレイチェル

 彼女の記憶には、幼い頃に見た、緑に囲まれた自然の情景がくっきりと残されており、手作りのアンティーク家具に囲まれた、温かい家庭の思い出が刻まれている。
 しかし、その記憶は、人工的に刷り込まれた仮想の記憶にすぎない。
 
  
人間が機械に変容するときの快感
 
 この映画は、テクノロジーの進化が、本物と見紛うばかりの人工的な 「自然」 と 「人間」 をつくり出すという逆説を、華麗なデカダンスの美学でくるんだ芸術映画でもあった。
 
 また、そのような耽美的な映像を、ヴァンゲリスの音楽が絶妙にサポートしていた。
 そして、ここで表現されたようなバーチャルな世界を、 「美しい」 と評価する思想が、政治や文学のメッセージとしてではなく、映画や音楽を通して現れてきたのが、1980年代だった。
 
 大塚英志氏は、この時代を代表するミュージシャンとして YMO を挙げたが、海外でも、クラフトワークやゲイリー・ニューマンがつくり出した音楽はそれに近い。
 いずれも、当時流行ったインベーダーゲームの効果音のように、無機質なビートをひたすら反復する音楽であり、その恐るべき単調さの果てに、人間が機械に変容していくときの 「快感」 も確実に表現されていた。
 
 このような 「人間 = 機械系」 ともいうべき人間像を肯定する感受性が生まれてきた背景には、コンピューターという新しいテクノロジーが、ようやく人々の生活に浸透してきたこととも無縁ではなかったろう。
  
 さらに、脳機能そのものの研究も進み、文学的に捉えられていた 「精神」 の動きを、大脳生理学として捉え直す風潮が台頭してきたこととも関係していたと思う。
 
 医学的には、臓器移植やクローン人間の研究が進み、テクノロジーの恩恵にあずかりさえすれば、人間は何度でも再生できるという意識が浸透してきたことも、このような 「人間=機械系」 ともいうべき人間像の評価に影響を与えたに違いない。
 
 これらのことが何を意味するかというと、
 
 「人間は必ず死ぬ」
 
 という大前提に立って築かれた既成宗教や古典哲学が、効力を失うことを意味していた。
 
 
私たちはレプリカントを超えたか?
 
 『ブレードランナー』 の公開から、もうじき25年になるという現在、私たちの暮らしている世界は、その地点からどのような変貌を遂げたのだろう。
 
 ある意味で、 『ブレードランナー』 の世界は、すでに実現されたともいえる。
 私たちは、あの映画でレプリカントたちが発揮していた超人的な身体能力を、一部獲得してしまっている。
 臓器移植などの医療技術は、1980年代よりさらに高度に発達したし、欠損した身体能力を補佐する機器類も、飛躍的に向上した。
 
 また、ロボット工学の進歩も著しく、 『ブレードランナー』 に登場するレプリカントのような人間の形こそとっていないものの、かつて人間の労働力が必要であった工場の各部署には、正確無比な作業を反復する工業ロボットが無数に配されている。
 
 テクノロジーの進歩は、さらに私たちの日常領域における 「身体能力」 まで高めた。
 たとえば、携帯電話などという装置を、1960年代や70年代に生きた人たちが想像できただろうか。
 限られた場所でしか使用できなかった固定電話から、個人が自由に持ち運びできる携帯電話に代わったとき、人は新しい 「感覚器官」 を手に入れたのだ。
 
 いかなる場所においても、遠方にいる相手と、瞬時に交信できる能力。
 昔の人ならば、それを 「テレパシー」 と表現するしかなかったろう。 
 
 さらに、私たちは知識量そのものにおいても、かつての人間が取得していた知識量をはるかに超える、膨大な 「知の領域」 を獲得する可能性を手に入れてしまった。
 グーグルなどの検索エンジンが収集する情報量は、幾何級数的な膨張を続けている。
 従来ならば、図書館に通い、専門家に取材し、場合によっては、海外の研究者に手紙を書いて教えを請うなどの手段によって獲得できた情報を、今の私たちは、パソコンにアクセスするだけで、瞬時に手に入れることができる。
 
 ネットの網目が高度に張り巡らされていけばいくほど、他人の 「知」 は瞬時に自分の 「知」 になり、自分の 「知」 もまた即座に他人に共有される。
 個体の頭脳は、巨大コンピューターの一部となることによって、また巨大コンピューターの全ての能力を獲得する。
 
 
「人間の意味」 を問うことを忘れた時代

 21世紀を生きる私たちが獲得した能力は、4年間しか生きられなかった 『ブレードランナー』 のレプリカントたちを、ある意味で完全に凌駕した。
 
 だが、私たちは、あの映画のなかで執拗に追及されていた「問い」を、今も切実に持っているだろうか。

 すなわち、
 「人間とは何なのか」
 「生命とは何なのか」
 という問いを。

 『ブレードランナー』 は、 「機械=人間系」 ともいうべき新しい人間像に不思議な生命感を注入した作品だったが、 「人間とは何なのか」 という問いだけは手放さなかった。
 逆にいえば、あそこに描かれたレプリカントの存在感が際立ったのも、そのような「新生命」 を、従来の古典的な生命観とガチンコ勝負させたからである。
 
 この映画では、主人公のデッカードを冷酷に追い詰めていくレプリカントの首領が、4年という寿命が尽き果てる直前に、主人公を助けるための手を差し伸べる。
 一つの生命が終わっても、その生命が、別の生命を助けることによって繋がった瞬間を捉えたシーンだった。
 そのとき観客は、レプリカントと人間が、ともに同じ 「精神」 を共有できるかもしれないという可能性を、一瞬だけ信じることができた。
 

▲ レプリカントの首領格のロイは、最後の最後に人間のデッカードを助け、自分の寿命を受け入れる

 しかし、 「機械=人間系」 という新しい人間像を 「美しい」 と称えた1980年代は遠くに去った。
 今私たちが住んでいる世界は、「人間とは何か」という問いそのものすら消失したポスト・ブレードランナーの世界である。
 
 私たちは、否が応でも 『ブレードランナー』 で描かれた 「電脳都市」 空間より、さらに進んだ世界を生きていかなければならない。
 そこで、求められるのは、どのようなモラルであり、哲学なのだろう。
 新しい模索は、すでに始まっているはずだ。
 
関連記事 「レプリカントの命  (ブレードランナー論序説) 」

関連記事 「ブレードランナーの未来世紀」 

参考記事 「グラディエーター」
 
参考記事 「ロビンフッド」
   
参考記事 「(映画のノイズ) ターミネーター3」 
 
参考記事 「アバターとエイリアン」
 

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ブレードランナー への17件のコメント

  1. TJ より:

    80年代からが始まりでしょうね。テレビゲームが流行はじめ、それがだんだんに発展して子供達がゲームのようになんでもリセットできるような考えを持つようになったり、ゲームと音楽の融合、機械が人間に近づくようになったのも・・・その進化は今も止まることなくこの先もさらなる進化をつづけていくんでしょうね。
     今は、自然に囲まれ道にはリスがいたり、湖があり川がある環境で生活していますが、これも、日本に帰ると80年代からの延長の世界に戻ってしまいます。

  2. 町田 より:

    TJさん アメリカからのコメントですか?
    ありがとうございます。しかし、不思議ですね。TJさんのコメントに、地球の裏側の日本にいながら20分後ぐらいにすぐお返事を差し上げられるなんて。やっぱり凄い世の中になったんでしょうか。
    >「湖があり川がある環境…」
    文明がどんどん発展しても、そういう地球環境を大切に感じる心だけは失わないようにしていきたいと思います。
    よい年をお迎えください。

  3. ふうてんのトラエモン より:

    最近電車内でよく遭遇する風景。一人で前を見たままずぅっと話し、笑っている。よくよく観察すると隣に相手はいるのだがその間殆ど顔どころか目も見ない。相手の反応を見ずして 不安ではないのか。しっかり目を見て話しなさいと育っている我々には理解できない。これも、子供の時からのテレビゲームやメールといった環境のせいなのか?

  4. 町田 より:

    ふうてんのトラエモンさん そうですねぇ。
    >「隣りに相手がいるのに顔を合わせないで話す」という光景。確かに見ますねぇ。
    ご指摘のとおり、メールなどの発達で、直に顔を合わせないコミュニケーションというものが当たり前になってきているからかもしれません。
    生きている人間と向かい合うことが、面倒くさいとか、怖いとか感じる人が増えているのだとしたら、ゆゆしきことですね。
     
    しかし、こうも言えます。
    メールなどの発達で、今まで会ったこともなければ、顔さえ知らない相手に対しても、今こうやってコミュニケーションできる世の中になってきているわけでもありますよね。
    文明の発達は、常に「良い面」と「悪い面」が両方あるということではないのでしょうか。
    難しいことかもしれませんが、「善い面」の方を伸ばすようにしていきたいですね。
    それでは、よいお年を。

  5. ボールチェアー より:

    はじめまして。
    いつも楽しく拝見させてもらってます。
    自分は、70年代に産まれて、80年代~90年代の移り変わりを目の当たりにしてきました。
    ゲーム機が発売され、パソコン、携帯と次々に進化して、「凄いなぁ~」と漠然と生きてきました。
    今はなんだか どうでもいいかな?て…
    会社の朝礼で、一言話があるのですが、「とくにありません」とか、「風邪に気をつけます」とかそんなのばっかり…
    若い社員、「君ら生きてるの?」て思うのですが…
    彼ら、携帯とかのメールは、暇さえあればしてるんですけどね。人の前に出ると全然話せない…困ったもんです。
    ブレードランナー年末になると見たくなるんですよ!
    昔のサイバー感の方が圧倒的にかっこよかったとおもうんですよ。
    マトリックスとか全然面白くないし…(映像ばっかりで…)
    クラフトワークも好きですよ。

  6. ご無沙汰です。と言いながらも毎日楽しく拝見しています。この広い宇宙にもし地球と同じような生命体があるとすれば、遅かれ早かれ人間と同じ文明をたどっているのではないかと思います。地球がこの先どのように変化するのか判りませんが、もう来るところまできている?様な気がします。SF映画にあったサイボーグが反乱して人間と戦う・・・・そんな時代もすぐそこにあるような気がします。もっとも私の目の黒いうちにはないでしょうけど(笑)。
     
    話は変わって、我が家の家族でのキャンカー出動が危機的存在にあります。子供も成長し親に付いて来なくなることは嬉しい反面、悲しい事実です。団塊の世代のキャンカーの中古需要に相乗りして手放して、ジムニーキャンカー仕様を製作しようかな!なんて考えています。何はともあれ良いお年をお迎えください。

  7. 町田 より:

    ボールチェアーさん はじめまして。
    >「ブレードランナーを年末に見たくなる…」
    なんか同じ気分ですねぇ! 私も、つい一週間ほど前、6回目ぐらいのDVDを見たばかりでした。劇場公開のときに2度見て、ビデオを買って、次にDVDもディレクターズカット版と両方買って、サントラも、「ニューアメリカン・オーケストラ」とヴァンゲリスのものと両方買って… けっこうハマっているのかもしれません。
    それにしても、ボールチェアーさんは30代になられたばかりなんですよね。クラフトワークを聞いてらっしゃったとは!
     
    そういえば、以前「テクノからJAZZへ…」と書かれていらっしゃいましたね。
    今後ともよろしくお願いします。
    よいお年をお迎えください。

  8. 町田 より:

    小平の福ちゃん ありがとうございます。
    >「地球がこの先どうなるのか…」
    北極の氷も溶けているというし、なんだか怖い時代になってきましたね。
    それにしても、思い出のある今のキャンカーを手放すご予定なんですか? ちょっとさびしい気もしますが。
    でも、ジムニーのキャンカーもありですね。軽キャンカーブームでもあるし、私もいっそのこと、今あるヴィッツの方を軽キャンカーにしてもいいかな…などとも思っています。
     
    お子さんが成長されて、親とキャンプに行かなくなるのはどこの家庭も同じことなんでしょうね。
    でも、そのうち親がよぼよぼしてくると、「俺が運転して連れていってやるよ」 という時代が、また来るものですけどね。
    それでは、よいお年を。来年もよろしくお願い申し上げます。

  9. ジャバママ より:

    町田さん!!
    楽しい文章、考えさせられる文章、思わず噴出す文章、教えていただく文章・・・。
    いろいろありがとうございましたっっっっっ(^^)!!
    そして、引き続き来年もよろしくお願い致します!!

  10. 町田 より:

    ジャバママさん 今年1年いろいろ励ましのコメントありがとうございました。
    今、やっと年賀状を書き始めているところです。
    さっき、やっと大掃除が終わったところで…。
    もうじき新年ですけど、
    (駆け込みで!)よいお年をお迎えください。

  11. ジャバママ より:

    新年早々、噴出す文章でふきだしました(^^)
    あけましておめでとうございます!!
    今年もお邪魔致しますっっっっっ!!

  12. 町田 より:

    あ、ジャバママさん おはようございます!
    明けましておめでとう。
    それにしても、エイリアン凄い!
    でも、あの映画、初めて見たとき、うちのカミさんぜんぜん怖がらなかったなぁ。
    「日ごろ見慣れているから…」とか言っていたけど、
    オレのことか?

  13. おおたに より:

    あけましておめでとうございます
    今年も更新楽しみにしております
    私共夫婦も大のSFファンで、ともにフィリップ・K・ディックの小説はほとんど読破いたしておりました、
    「トータル・リコール」は今一歩でしたが 「ブレードランナー (アンドロイドは電気羊の夢を見るか?)」 はLD持ってますが、1年に1度は見たい作品です
    ついつい 「流れよ我が涙、と警官は言った」 読み返しています

  14. 町田 より:

    おおたにさん 明けましておめでとうございます。
    おおたにさんもSFがお好きなんですね。しかもディックをほとんど読破されたとは素敵です。
    私はそれほどSF小説の良い読者ではないのですが、スタニスワフ・レムの『ソラリスの陽のもとに』とか、J・Gバラードの『結晶世界』などは好きでした。
    日本の作家では初期の荒巻義雄とか、マイナーですけど『太陽風交点』を書いた堀晃など、好きで読んでいました。
    もちろん初期の小松左京も良かったし、『たそがれに還る』とか、『百億の昼と千億の夜』を書いた頃の光瀬龍も好きでした。
    どうも「スターウォーズ」とは違う方向の、“寂しい”ものが好みのようです。
    『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』 良かったですね。

  15. ブレードランナー

     今宵は、大分古い映画になるが、『ブレードランナー』』(Blade Runner)を見た。

  16. なっちゃん より:

    深い。
    昨日十何年振りかにDVDでブレードランナーを見ました。また繰返し見たい衝動に駆られています。
    フェルメールのような光って感じました!
    闇はレンブラントだったのか…。
    でもそれも人工なんですよね…。
    レプリカントたちが少しでも寿命を延ばそうともがく姿は、人間と変わらない。
    自分の思い通りにならないからといって人を殺す人間もいくらでもいる。
    まだ町田さんみたいにこの映画についてうまく言葉でまとめられません。

  17. 町田 より:

    >なっちゃん様
    何だかとてもうれしくなるようなコメントをいただき、久しぶりにジーンときました。
    この 「ブレードランナー」 という映画は、自分にとっても一生忘れられないような映画で、いまだに人類の未来を考えるときのベースとなっている映画です。
    なっちゃん様のようなご理解を得られる方のコメントをいただけて、とても光栄です。
    フェルメールの光と、レンブラントの闇。
    リドリー・スコットという監督は、そうとう絵画を研究している人のように思えます。「グラディエイター」や「1492 コロンブス」 でも、古典絵画と見紛う映像がふんだんに出ていたように思います。
    そういう話題を共有できるって、とても幸せでした。

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